一式半装軌装甲兵車




一式半装軌装甲兵車一型



一式半装軌装甲兵車二型



一式半装軌装甲兵車三型



一式半装軌装甲兵車四型



一式半装軌装甲兵車五型



<要目>
重量7.5トン、全長6.1m、エンジン出力150hp、乗員3+12名(標準)、装甲厚13ミリ(最大)、武装、なし(随時重機関銃取付)(一型、三型)、7cm歩兵砲九二式歩兵砲転用(二型)、46口径3.7センチ砲(四型)、8センチ迫撃砲(甲型)12センチ迫撃砲(乙型)(四型)、最高速度50km/h

 日本陸軍において戦車部隊の編成が進むのに連れて、諸兵科連合部隊を構成するための随伴歩兵部隊が必要となっていた。この機動化、装甲化された機動歩兵部隊に配備するために開発されたのが、一式半装軌装甲兵車である。
 それまで日本陸軍は、必要に応じて自動貨車に乗車させた歩兵部隊を、随時戦車部隊に付属させていた。
 しかし、この編成は九五式軽戦車と自動貨車の組み合わせでは整地では同速度で行動できたものの、不整地行動能力では装輪式の自動貨車では戦車に追随できなかった。
 また、九七式中戦車は基本的には徒歩歩兵部隊を支援する歩兵戦車であるため、自動貨車との組み合わせでは戦車部隊のほうが圧倒的に鈍足であり、機動歩兵の足かせとなってしまっていた。

 一式半装軌装甲兵車と前後して、日本陸軍には機動戦を前提とした一式中戦車が開発が進められており、この新中戦車との共同行動を前提として、一式半装軌装甲兵車の要求性能はまとめられた。
 不整地での走行性能を追求するため、一式半装軌装甲兵車の足回りは5,6トン級牽引車と同じく前輪操縦式のハーフトラック方式でまとめられた。この足回りに十分な機動性を付与するため、150馬力の燃費に優れたディーゼルエンジンが車体前部のボンネット内に配置された。このフロントエンジン方式は脆弱な装甲を補う手段でも有り、前面からの被弾に対する乗員防護のためでもあった。
 乗員保護にエンジンを使用せざるをえないほど一式半装軌装甲兵車の装甲は薄く、背面等の被弾する可能性の低い箇所は大口径小銃弾でも貫通されるほどであった。基本的に一式半装軌装甲兵車の「装甲」は要求性能上で重量が制限されていたことから、至近弾となった榴弾からの断片防御程度に抑えられていた。
 この重量制限は、使用鋼材の抑制による量産性の向上、重量軽減による使用可能なデリックや輸送手段の増大によって戦略的機動性を向上させるためであった。
 この方針は概ね成功したといってよく、一式半装軌装甲兵車は日本軍の第二次欧州大戦参戦をうけて本格的な大量生産が行われた。もっとも、本来の開発目的であった戦車部隊に随伴する機動歩兵部隊には、より装甲の充実した全装軌式の一式装甲兵車が配備されており、一式半装軌装甲兵車は一般の歩兵部隊などに広く配備された。
 一式半装軌装甲兵車は、その生産数の多さに比例するように多数の派生型を生み出していた。

 一式半装軌装甲兵車の中で最も生産数が多かったのは、本来の用途である装甲兵車として運用された一型である。またすべての派生型の原型となった一型は、概ね半装軌型の牽引車に若干の装甲を施した構造になっており、オープントップ式で両脇に輸送される兵員用の腰掛けが設けられている。
 オープントップ式のため手榴弾を投げ込まれると被害が大きくなるなど問題はあったが、周囲の監視と乗車戦闘には適した構造であり、歩兵1個分隊にあたる12名の将兵とその装備を輸送できた。
 基本的に一型は固有の兵装を有さないが、機関銃を取り付けるための台座を装備しており、車載用重機関銃や場合によっては乗車する歩兵分隊が装備する軽機関銃も必要に応じて装備していた。
 当時日本陸軍歩兵部隊は、3個軽機関銃分隊と1個擲弾筒分隊で1個小隊を編成しており、一式半装軌装甲兵車装備部隊では、各分隊ごとに乗車する四両で1個小隊を構成していた。だが擲弾筒分隊は擲弾筒の照準や装填作業の関係から、乗車戦闘を行うのが困難であった。
 そこで一式半装軌装甲兵車を装備した機動歩兵部隊では、4個の分隊すべてを軽機関銃分隊とするか、擲弾筒は下車戦闘専用と考えて、小銃を増備したうえで乗車戦闘時に限り小銃分隊として運用するケースが多かったようである。

 日本陸軍では、歩兵大隊および連隊に2〜4門程度の短砲身3インチ級砲を歩兵砲として配備していたが、装甲兵車を装備する機動歩兵部隊向けに、歩兵砲を自走化した車輌として開発されたのが、一式半装軌装甲兵車二型である。
 歩兵部隊に直協して、直接照準でトーチカや機関銃陣地を撲滅するのが歩兵砲の役割だった。一式半装軌装甲兵車二型は当時の日本陸軍の主力歩兵砲である70ミリ口径の九二式歩兵砲を車載用に改造して搭載している。
 搭載位置は操縦室上部の右側にオフセットされた位置に、旋回範囲を限定して設置されていた。車載化にあたって防盾は拡張されていたが、装甲厚はさほどでもなく、損耗率は高かった。
 後部兵員室はほぼ原型と同一だったが、少数の砲操作員の他は兵員を載せる必要がなかったため、砲弾搭載スペースに当てられていた。
 歩兵砲を搭載した一式半装軌装甲兵車二型だったが、実際に運用した歩兵部隊からの評判は、運用が難しいためさほど良くなかった。操縦室上部に搭載された歩兵砲は、旋回範囲も限定されており、また操縦室が邪魔となって仰俯角もさほど大きくは取れなかった。
 何よりも簡易な構造であるために、通常の九二式歩兵砲は、砲員だけで容易に発射位置を変更でき、また僅かな地形のくぼみも遮蔽物として利用できたのだが、操縦室上部に歩兵砲を設置せざるを得なかった一式半装軌装甲兵車二型は地形を遮蔽物として利用することが困難であるため、しばし無防備な車体部分を敵前にさらして撃破されるか、あるいは安全を考慮するあまり、絶好の遮蔽物から移動できずに射撃時期を逸してしまっていた。
 第二次欧州大戦中盤から顕著になってきたそれらの問題点をうけて車載方式ではなく、従来の分割運搬方式の歩兵砲の牽引式への改設計が考案された。この牽引式歩兵砲は、一式半装軌装甲兵車一型に少改造を加えた物を牽引車として、高速での牽引に対応するためにゴム製のタイヤなどを装備した機動砲となるはずであった。
 だが、大戦終盤にはすでに従来の大隊、連隊支援用の歩兵砲が、より簡易な迫撃砲や個人で携帯可能な無反動砲に置き換わっていったために、牽引式歩兵砲も制式採用されずに試作段階で開発中止となってしまった。
 一式半装軌装甲兵車二型も大戦終盤には早々と制式装備から取り除かれていった。

 戦闘目的ではなく、各種通信機を装備した車輌が一式半装軌装甲兵車三型である。原型となる一式半装軌装甲兵車の後部兵員室内部の腰掛けを排除し、代わって各種通信機を装備している。車体上部には特徴的なループアンテナを装備し、他にも複数のホイップアンテナやロッドアンテナを装備している。
 伸縮式のロッドアンテナを除き各種アンテナは使用波長が異なる無線機ごとに異なっており、一両で各級部隊と連絡をとることが可能であった。
 実際の運用では各通信隊に配属されたのだが、当然だが歩兵連隊通信中隊と捜索連隊通信小隊など部隊の規模や兵科によって使用する機材が異なっており、一式半装軌装甲兵車三型は、搭載する通信機の種類だけバリエーションがあった。
 さらに第二次欧州大戦では電波関係機器の性能が飛躍的に向上しており、レーダー程ではないにせよ各種通信機も大戦中に機材更新が相次いでいた。そのため一式半装軌装甲兵車三型は、他の派生型とは異なり、通信指揮車輌としての基本配置のみが共通で、さらに多数のサブとなる派生形が存在していた。
 なお、通信指揮車とはいっても内部容積の大半が各種通信機でしめられていたため、実際には指揮官や幕僚は通常の装甲兵車やスタッフカーなどに座乗し、通信のみを一式半装軌装甲兵車三型に依存する形が多かった。
 一部機動性を要求される機甲部隊を除いて、実際に指揮官を乗せるケースは少なかったようである。

 一式半装軌装甲兵車二型が短砲身の歩兵砲を装備したのに対して、長砲身の速射砲を装備したのが四型である。
 装備されたのは軽量の3.7センチ砲だったが、長砲身であったため、歩兵砲を搭載した二型と同じ操縦室上部に設置した場合バランスが悪くなってしまう。これを避けるために、3.7センチ砲は、操縦室後方に新たに砲室を設けてその上部に設置している。
 砲搭載部分より後部は、兵員の乗車スペースおよび弾薬収納スペースに当てられている。また、側壁部の開口は通常型の操縦室直後から、速射砲を搭載した関係で後方に移動している。
 他国の40ミリ級対戦車砲と同様に、第二次欧州大戦では緒戦をのぞいて、このクラスの砲は対戦車用途に使用できない非力なものとなってしまったが、一式半装軌装甲兵車四型は簡易な歩兵支援火器として終戦まで使用された。
 一部は師団捜索隊の火力支援車にも使用されており、戦車撃破例も少ないながら存在している。
 特に大戦後半には、英国の2ポンド砲に倣って砲口に減口径用のアダプターを取り付けた砲が多かった。これは、砲口をくぐり抜けるときに、砲弾形状を細く絞り込むことで、砲身内の高圧の発射エネルギーを余すこと無く砲弾に伝えるというもので、榴弾が使用できなくなる代わりに、専用徹甲弾を使用した場合は近距離ならば敵主力戦車を撃破することも可能であった。
 なお日本軍の第二次欧州大戦参戦前後に制式化した一式5.7センチ機動砲は、3.7センチ砲の自重が約300キログラムに対して1.5トンと重いために車載化は放棄され、牽引されて使用された。
 また、この5.7センチ砲も大戦中盤には早くも威力不足が指摘されたために7.5センチ砲が新たに開発されたが、三式中戦車の主砲と部品を共通化された7.5センチ砲は更に重量があるため牽引式ではなく、全装軌式の自動貨車を原型とした自走砲化が進められた。
 そのため一式半装軌装甲兵車四型の対戦車車輌としての後継は開発されなかったが、大戦後半には速射砲中隊は無反動砲を装備する対戦車中隊に改編されていたため問題とはならなかった。

 一式半装軌装甲兵車五型は、兵員乗車用スペースに迫撃砲を搭載した自走迫撃砲仕様である。簡易な構造で曲射弾道で榴弾を発射する迫撃砲は、歩兵部隊で独自に運用する支援砲として歩兵連隊直轄戦力として運用されていた。
 当初は、歩兵連隊の制式装備であった81ミリ口径の九七式曲射歩兵砲を搭載していた。俗に初期型と呼称されるこの初期生産型の一式半装軌装甲兵車五型は、重量のある装甲兵車の車体から発砲するため射撃精度が高く、また行軍態勢から発砲開始までの展開時間も通常の牽引方式に比べて格段に早かったため、装備部隊からの評判は良好であった。
 だが、連隊直轄火力として歩兵砲代替とするには九七式曲射歩兵砲は威力が小さく、中途半端な存在であった。
 対独戦を見据えた陸軍各級部隊の火力向上を目的として、1940年頃から81ミリ口径の迫撃砲は、歩兵連隊から大隊レベルに管轄を移行することとなった。
 そのため、通常の徒歩、自動車化歩兵では小型運搬車、あるいは兵員が背負って運用できる軽量の九九式小迫撃砲が、大隊砲代替の支援火力として配備された。この九九式小迫撃砲の弾薬は、九七式曲射歩兵砲と共通のものであった。
 九七式曲射歩兵砲を装備した一式半装軌装甲兵車五型も、機動歩兵連隊の連隊直轄から離れ、隷下の歩兵大隊直轄の大隊砲小隊を改編した迫撃砲小隊に配備された。
 また、歩兵連隊直轄の連隊砲中隊も、大口径の迫撃砲を装備する重迫撃砲中隊に改編された。ここに配備する迫撃砲として15センチ級の各種中迫撃砲が審査されたが、いずれも重量があるため歩兵連隊が装備するには負担が大きかった。
 そこで取り扱いが容易な12センチ砲弾を使用する12センチ二式迫撃砲が開発された。この迫撃砲は自動貨車に積載か、分解すれば10名程度の分隊で駄馬と人力での運搬運用も可能だった。
 当然この二式迫撃砲は、自走砲化も計画され、一式半装軌装甲兵車に搭載された。大口径にはなったものの、一式半装軌装甲兵車に搭載する場合に問題となる程度の差異ではなかったらしく、諸元上はどちらの砲を装備しても一式半装軌装甲兵車五型の運動性に差異はなかった。ただし砲と同時に車内に搭載される即応弾薬の数量は減少している。
 この後期型の制式配備に伴い、九七式曲射歩兵砲装備型を五型甲、二式迫撃砲装備型が五型乙と呼称されるようになった。

 


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