第四話:満州戦車戦






    1945年 8月11日 チチハル郊外

 チチハル郊外に点在する葦の群生地からは、鉄道とそれに並行して走る街道が見渡せていた。神咲少尉と草薙軍曹は点在する木の影を選んで潜んでいた。機動旅団本隊から離れた二人は、すでにソ連軍によって占拠されたチチハルの様子を探るべく、気球を用いて密かに戦線の後方へと潜入していた。
 結局、重狙撃銃班は神咲少尉と草薙軍曹の二人だけの編成で実戦に投入されることになってしまっていた。幾度かおこなわれた運用実験の結果からすれば弾薬手が欲しいところではあった。
 狙撃銃としては格段に重量のある試製重狙撃銃を抱えた狙撃手は余計な弾薬を持ち運ぶ余裕があまり無かった。観測手兼班長の神咲少尉にしても狙撃手の護衛用として小銃を装備しているからやはり大した余裕は無い。
 機動旅団が装備する小銃は陸軍に広く配備されている九九式自動小銃では無かった。もちろん旧式の三八式小銃などでもない。それは九九式の改良型である二式自動小銃だった。
 二式自動小銃は九九式の上位機種といってもよかった。装弾数は九九式と同じ6.5ミリ十発だったが二式はクリップ式から再装填の早い弾倉式に変更されていた。また三八式と同じように長距離の集弾性に優れる長銃身の九九式と比べると騎銃並に銃身が短いのも二式の特徴だった。それどころか折りたたみ式の銃底をたためば室内のような狭い場所でも使用できた。
 これは長い射程を要求される平野での野戦などではなく、機動旅団は基本的に敵地への浸透を前提として設立されたからだ。敵地での行動を妨げない軽快性と敵の自衛火力程度なら簡単に排除できるだけの火力という矛盾した欲求の妥協点が二式自動小銃だった。
 だが重狙撃班の自衛火器としては二式自動小銃でも重過ぎるほどだった。どうせ敵に損害を与えることは目的としていないのだから一部部隊にしか配備されていない百式短機関銃が欲しいところだった。
 だが準備不足のまま戦闘に突入してしまった以上贅沢は言っていられなかった。重狙撃銃の弾薬がなくなれば試製重狙撃銃は放棄するしかない。そんなときの為に機動旅団の将兵は徒歩空拳でも戦えるよう訓練されていた。うまくすればソ連兵から小銃の一つでも奪えるだろう。
 状況はあまりよいとはいえなかったが神咲少尉は事態を楽観視することにしていた。

 黒龍江省第二の都市であるチチハルは交通網の結節点となる所だった。満州の重要な交通網である鉄道や街道が集中する場所なのだ。
 ソ連軍は大量のトラックを装備しているとはいえ兵站の大部分は鉄道に頼っていた。というよりもソ連軍兵站の基本は日露戦争の頃からシベリア鉄道を重視していたからチチハルのような都市を制圧して鉄道網の把握をおこなおうとしているのは当然だった。
 だがこれは開戦前から把握されていることでもあった。機動旅団では開戦後には、戦線後方へ躍進して主要な鉄橋や結節点を破壊することが計画されていた。もちろん味方の戦線を後退させるときは工兵部隊がこれらを破壊することになっている。機動旅団が破壊するのはすでに敵に占拠された場所だった。
 機動旅団の任務はこれだけではない。将校と下士官のみで編成された機動旅団は兵員数だけで見れば一個連隊にも満たない。
 だが気球やグライダーを用いて戦線後方へ潜入した精鋭特殊部隊は兵員数では図れないほどの戦力となるだろう。選抜された機動旅団の将兵には潜入法だけではなく爆破術や近接格闘、狙撃術なども教え込まれていた。
 戦時になれば機動旅団は取得した特殊技術を駆使して後方を撹乱することになる。例えば重要地点の爆破や指揮官の狙撃をおこなうのだ。
 神咲少尉と草薙軍曹もチチハルの偵察を命じられてはいたが機会さえあれば鉄道の破壊も行うつもりだった。兵力に劣る関東軍にとって、機動旅団とはそこまで期待するだけの戦力だった。
 しかしチチハルの現状を偵察するまでは派手な活動をするわけにはいかないだろう。神咲少尉はそう考えていた。
 昨晩潜入した二人は午前中からずっと鉄道と街道を監視していた。チチハルに入っていく物資の量を類推する為だ。だが正午になる今頃になって神咲少尉は奇妙なことに気がついていた。チチハルに入っていく列車の本数が釣り合わないような気がしていた。
 全ての交通路監視できるわけではないからある程度は類推するしかないのだが、それにしても奇妙に感じるほどの量ではあった。最初はチチハルに大規模な部隊が駐屯し、その部隊への配給に物資が使われているのかとも考えたが、この局面でそんな部隊を遊ばせていく余裕はソ連軍にも無いはずだった。
 しばらく考え込んでいた神咲少尉に草薙軍曹が試製重狙撃銃のスコープを覗きながらいった。
「ひょっとして露介はここで鉄道から自動貨車に荷物を載せ替えておるんではないですか」
 神咲少尉ははっとして草薙軍曹をみた。


    1945年 8月12日 チチハル

 神咲少尉はぶつぶつと文句を言いながら、野菜を満載した篭を背負ってチチハルの中心部へと歩いていた。脇には少尉と同じようなみすぼらしい格好をしている草薙軍曹が手押し車で野菜を運んでいる。
 チチハルを攻撃したのは極東に配備されているソ連軍の中でも最精鋭と言われていた第六親衛戦車軍だった。スターリン重戦車を大量に配備された第六親衛戦車軍の打撃力は強大だった。だがチチハル市街は意外なほど破壊の跡が見えなかった。
「チチハルを防衛していた部隊はやはりほとんど抵抗しないで後退したようですな」
「もともとそういう計画だったからな。陣地を築いても防衛できるだけの部隊がいないんだからな。たしか防衛部隊は避難民を護衛しつつ後退する手はずになっていたはずだ。今頃はハルビンに終結していると思う」
 二人は周囲から怪しまれないようにたどたどしいものながらも中国語を話していた。もっともソ連軍の進駐に騒然としている市街では、どこにでもいる野菜売りにしか見えない二人は周囲に溶け込んでいた。
 チチハル市街への偵察を言い出したのは草薙軍曹だった。戦前の一時期にチチハルに住んでいた草薙軍曹にはチチハル周囲に土地勘があった。確かに郊外からの監視では得られる情報に限りがあった。
 結局草薙軍曹に押し切られる形で二人はチチハルに潜入することになった。もちろん軍装のまま市街に入るわけには行かない。
 二人はまずチチハル郊外にいる草薙軍曹の知り合いの所に行った。裕福な地主であるその知り合いは僅かばかりの金銭で快く手を貸してくれた。
 資本家層の出身だから共産主義者を嫌っているというその知り合いに装備品は預けてきた。その代わりに借りたのが農民が着るような服と今日の朝に出荷するはずだった野菜だった。
 その他に二人を案内する為に使用人の老人も手伝いにやらせていた。そしていま二人は老人の先導でチチハル中心部の市場に向かっていたのだった。
 市場につくと老人は手馴れた様子で野菜篭を地面に下ろした。朝の早い時間だからか市場はまだ野菜売りの姿は少なかった。老人はござを敷いて座るとにこにこと笑いながら二人にいった。
「旦那方はこれからどうしますか。あたしはとりあえず昼ごろまではここで売っていますが」
「昼ごろまで品物が残っているのかい」
「いいえ、普段はどうしても売れ残るような場合を除けば昼前には帰ります。しかし旦那方にはそれじゃ都合が悪いんじゃありませんか」
 神咲少尉は眉をしかめた。この老人には自分たちの正体や目的は話していない。だが妙に鋭い所のある老人には見破られているようだった。
 しかめっ面をしている神咲少尉を横目で見ながら、草薙軍曹は老人に親しげに言った。
「すまないが俺は市街をみてくるよ。こちらの大人には店番をしてもらっていてくれ」
 一瞬何を言っているのか良く分からなかった神咲少尉は慌てて草薙軍曹に向き直った。だが少尉が文句を言う前に草薙軍曹はいった。
「少尉には土地勘が無いでしょう。それに朝のうちから大の男が二人で何をするともなしに歩いていては怪しまれてしまいます。少尉はここで留守番をしていてください。大丈夫です。露介が使いそうな施設ならもう見当がついていますから」
 それだけを言うと素早く身を翻した草薙軍曹は雑踏に紛れ込んでいった。
 一人取り残されていた神咲少尉の肩を老人が叩いた。
「まぁ仕事は仕事だから、旦那も野菜売りをしてもらいますよ」
 神咲少尉はただこくこくとうなずくことしか出来なかった。

 市場から離れた草薙軍曹は中心から僅かに離れた雑居ビルに入った。用があるのは三階に店を構えている貿易商だった。
 軍曹は三階に着くとノックもせずにいきなり扉を開けた。すると扉の脇に控えていた男が慌てて右手を懐に入れるのが横目に見えた。
 草薙軍曹は無表情な顔でその男の手を左手で押さえると、あいている右手で素早く扉を閉めた。
「機関長はおるか。おるなら草薙が来たと伝えてくれ」
 手をつかまれていた男はようやく草薙軍曹の顔を確認するとほっとしたようにため息をついた。
「何だあんたか、びっくりさせないでくれよ。もう少しで撃っちまうところだったぜ」
「貴様の腕では俺を撃つ前に首をへし折れるぞ。いいからさっさと機関長を呼んで来い」
 男は軽く肩をすくめるといった。
「少佐なら中にいる。今は撤収準備中だがな。運が良かったぜ、ここも今日中に引き払うつもりだったからな」
 すると騒ぎを聞きつけてきたのか別の男が奥から顔を出した。仕立てのいい背広を着た男は意外そうな顔で草薙軍曹をみた。
「藤田少佐、草薙が来ました」
 見張りの男が慌てて申告する。藤田少佐は苦笑いをしながら言った
「そんなことはみれば分かる。それよりも草薙、玄関でそんな格好をされては困るな。ここは一応貿易商なんだからな。とりあえず中に入れ、茶ぐらいは出す」
 そういうと藤田少佐は奥の部屋に入ってしまった。草薙軍曹も見張りの男にかるく頷くとその部屋に入った。部屋に入ると草薙軍曹は前置きなしでいった。
「藤田少佐、自分が知りたいのは現在のチチハルの状況です。ひょっとしてチチハルは物資の集積所になっておるのではないですか」
「何だ、貴様が帰ってきたというからてっきり機関に戻ってきたと思ったのだが違うのか」
 仕立てのいい背広の上着をハンガーにかけると藤田少佐は機関員の一人に茶を出すように命じた。草薙軍曹にも応接用のソファを指し示す。
 普段は藤田少佐の執務室として使用されている部屋は、どこから見てもそこそこ儲かっている貿易商の部屋にしか見えなかった。
 とてもではないが、満州でも指折りで数えられるほど優秀である特務機関の司令部とは思えなかった。


    1945年 8月12日 チチハル

 藤田機関と呼ばれる諜報組織が満州に設立されたのは1940年のことだった。それは同時期の陸軍に吹き起こった改革と同じく、前年度のノモンハン事件が原因となった事象だった。
 当時の日本が満州及びシベリア地方に持っていた情報源は極僅かなものだった。日本陸軍の戦力の大半を関東軍として駐屯させながら、情報の収集ということには無頓着だったのだ。それがノモンハン事件での大敗にと繋がった。
 当時ソ連は大規模なトラック部隊を保有していた。兵站や兵員の輸送を自動車化していたのだ。それを掴み切れなかった関東軍は、自分たちのように徒歩や馬での移動を前提としてソ連の兵站線を計算した。その結果、関東軍が予想していた以上の大兵力をソ連軍は投入することが出来たのだ。
 それに加えて装甲車や戦車も多数保持していた。個々の戦いではむしろソ連軍を圧倒し続けた関東軍が敗北したのは単純に数という問題もあるが、防諜体制の欠如も問題視されることになった。
 関東軍や参謀本部は当初ノモンハン事件の損害を隠し通すつもりでいた。確かにそれまでの陸軍ならばそんなことも可能だっただろう。壊滅した部隊の将兵を異動させ、戦闘詳細を書き直せば済むだけの話だ。
 だが2.26事件後の陸軍にそんな権力は残っていなかった。結局、実際の戦闘詳細を書き写した出所不明の怪文章が陸海軍内を飛び交い、天聴に達した時点でノモンハン事件の隠蔽は不可能になった。
 関東軍の機械化部隊の拡充や新型戦車の相次ぐ開発はその結果だった。また国内外の情報を収集し分析する諜報機関の増設も密かに行われることになった。
 だが、だからといって関東軍の誰もが情報通になったわけではなかった。満州国内には多数の防諜組織が置かれることになった。しかしそれらの特務機関は関東軍ではなく参謀本部直属の組織だった。
 情報の流れとしては、間諜などが入手した情報は、それぞれの特務機関で整理されたうえで参謀本部情報部で分析される。その結果が必要と判断された実施部隊に送られることになっていた。つまり関東軍といえども現地で得られた情報は参謀本部というフィルターを通してみることになるのだ。
 関東軍にしてみれば面白くない話だった。即応性を主張して何とか対ソ機関の生情報の転送こそ認められたものの関東軍にしてみれば満州国内部で防諜を行う特務機関は得体の知れない存在に過ぎなかった。
 予備役軍人のまま特務機関員となっていた草薙軍曹が関東軍に徴集されたのもそういった事情のせいだった。関東軍は事情を知らないままに特務機関員の何人かを徴集していた。
 だが特務機関はその存在そのものが知られていないことに意味があった。参謀本部や藤田機関にしてみれば、自分のところの兵隊を横からさらわれた様なものだが、まさかこれこれの男は機関員ですと証明するわけには行かなかったのだ。

「それで、チチハルの現況は教えてもらえるのですか」
 出された茶に口もつけずに草薙軍曹が言った。藤田少佐は眉をしかめると一枚の地図を出した。そのチチハル周辺の地図をテーブルの上に投げ出すと少佐は言った。
「別に教えるのはかまわん。チチハルの現況は大体がこの地図に載せてある。ああ、別に持って帰ってもかまわんぞ、どうせ我々も今日中には店じまいをして逃げ出すからな」
「いまさら逃げ道なんてあるんですか」
 藤田少佐はにやりと笑うと郊外の一点を指差した。
「そこに知り合いの亡命ロシア人が住んでいてな、そいつを指揮官役にしてソ連軍の格好をして前線近くまで移動する。あとはこっそりと夜に逃げ出せば味方の戦線までたどり着ける。途中で避難民らしく偽装する必要はあるがな。どうだ貴様も来るか」
 草薙軍曹は生真面目な顔で首を振った。
「それは無理ですな、自分はここでソ連軍の兵站を破壊する任務をおびていますから」
「噂の機動旅団か・・・ところで貴様らが使える武器はどれくらいだ」
 そういうと藤田少佐は地図の中からチチハルの中心部からやや外れた地域を広げた。
「13ミリ狙撃銃一丁・・・」
 草薙軍曹が言い切る前に藤田少佐はあきれた顔になった。
「何を考えておるのだ貴様は、その程度では混乱もさせられんぞ。ここの兵站に打撃を加えるつもりなら一個支隊か重爆の編隊でも連れて来ないと無理だな」
「別に自分たちだけでそれを行おうとは考えておりません。後方の旅団司令部に連絡がつけば関東軍が爆撃でもするでしょう。戦力が無くて攻撃が出来ないのであれば可能な限り機動旅団で撹乱して後退します」
 そういうと草薙軍曹は地図を持って部屋を出て行こうとした。だが部屋を出る前に藤田少佐が声をかけた。
「少し待て、うまくすればどうにかなるかも知れん」
 草薙軍曹が振り返ると藤田少佐は勢いよく立ち上がったところだった。少佐は廊下に顔を出していった。
「俺は用ができたから撤収には同行せんぞ。お前たちはかねてからの手はずどおりに逃げ出すようにな」
 それだけ言うと藤田少佐は呆気に取られている草薙軍曹に意味ありげな顔を向けた。
「貴様らはもちろん無線機ぐらいは持ってきているだろうな」
 慌てて草薙軍曹が頷くと藤田少佐はどこかえらそうな口調で言った。
「よし、無線機を隠している所に早く案内しろ。うまくすれば戦車隊を呼び寄せられるかもしれん」
 草薙軍曹はまじまじと元上官の顔を見つめた。それは突拍子も無いことを口走る患者を眺める精神科医のような目線だった。
 だが藤田少佐はそんな草薙軍曹の表情には気がつかないのか機嫌良さそうにいった。
「なあに、ちょっと同期に関東軍で作戦参謀をしているものがおってな。そいつは無類の戦車好きだからこういった機会があると話せば戦車隊を送ってくれるかもしれんぞ」
「そんな馬鹿な話があるものですか。だいたいこのご時世に暇な戦車部隊があるはずも無いでしょう」
「そうでもないぞ。まぁそれは良いからさっさと無線の所まで連れて行け」
 今にも背中を押さんばかりに急かして来る藤田少佐の様子に草薙軍曹は大きくため息をついた。
 まさか本当に戦車部隊が派遣されるとはまったく考えていはいなかった。



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