エピローグ






    1945年 2月24日 呉

 二月にしては肌寒く感じる海風に大石中佐は思わず身震いしていた。まだ破孔の修理が終わっていない艦橋は風雨を遮る帆布で薄暗かった。ふと物音に気がついた中佐が振り返るとのっそりと西園寺が艦橋に入ってきた。
 西園寺は血糊がふき取られたばかりの艦橋を見渡すと大石中佐に向き直っていった。
「艦長代行、電探に関する修理の所感を報告に参りました」
 そういうと西園寺は報告書を大石中佐に渡した。中佐は一応報告書をめくって閲覧する様子を見せたが身が入っていないことは傍目にもはっきりと分かった。どのみち生き残った大和と武蔵はドック入りを余儀なくされるほどの損害を受けているのだ。電探の修理はそのときに行われることになるだろう。
 だがそんなことは西園寺にも分かっていた。この報告書も何か仕事をしていないと身が持たないからだ。それを示すように西園寺は頬に出来た新しい傷をやたらと気にしていた。

 二日前の戦闘では結局大和と武蔵はインディアナを撃沈したところで砲弾が尽きてしまっていた。硫黄島に対する砲撃とその前の戦闘で砲弾を消耗してしまったのだ。対する米海軍も似たようなものだった。第二遊撃部隊との戦闘で砲弾を消費していた為に大和と武蔵に対する追撃は不十分なものになった。
 大和と武蔵が榛名の生存者を回収すると同時に戦場を離脱すると同時に急速に戦闘は下火になっていった。第二水雷戦隊と第31戦隊と合流したのはその直後だった。第31戦隊は敵前衛艦隊との戦闘で大きな損害を受けていたが、第二水雷戦隊は旗艦をのぞくとほぼ全艦が生き残っていた。
 だが第一遊撃部隊が受けた損害はこれだけではなかった。その後、体勢を立て直したらしい米空母部隊からの艦載機部隊が何度と無く襲撃をかけてきたのだ。大和と武蔵を中核とする残存艦隊は乏しい弾薬とすし詰めになった他艦生存者を気にしながら対空戦を延々と続けた。
 だが艦載機部隊の攻撃は精彩を欠いていた。それに退避行動を行う場所には欠かないし、残存艦の殆どはまだ全力を出せる状況だったから大きな損害は受けなかった。
 だが大和がただ一発だけ受けた直撃弾による被害は大きなものだった。その爆弾は艦橋に命中した。それもそれ以前の砲弾の破片によって破損した部分だった。そしてその場所は山口長官や艦長が詰めていた司令塔だった。
 大石中佐と西園寺を含む数人が生き残ったのは運が良かったからだった。現に大石中佐以外はどこかしら怪我をしていた。大石中佐が無事だったのもちょうど破孔から突入してきた破片が海図盤で遮られたからに過ぎない。
 この損害によって大石中佐は大和生存者で最高位になってしまっていた。そして大石中佐はたった一撃で満身創痍となってしまった大和をどうにかして呉まで持ってきたのだ。
 呉到着のタイミングはぎりぎりだった。すでに橘型の何隻かは燃料がつきかけていた。洒落ではなく残った燃料をタンクの底からかき集めようとしていた艦さえあった。

 大石中佐は大和の艦橋から空を見上げていた。脇には同じように西園寺がいた。中佐は西園寺も同じようなことを考えているのだろうと考えていた。この戦闘に何の意味があったのか、硫黄島にどれほどの価値があるのかということだった。
 だが西園寺は待ったく別のことを考えていた。日本海軍はこの戦いでは一体何隻の戦艦を沈めることが出来たのだろうか。硫黄島到着以前の戦闘は詳細が分かっている。だが硫黄島から離れるときの戦闘に関しては良く分からない所があった。お互いが高速で走りあうものだから脱落艦の状況がつかめなかったのだ。確実に沈めたのはインディアナだけだ。ひょっとするとウィスコンシンも沈んだかもしれない。だがサウスダコタは残っただろうな。これだけの損害を与えたのだからこの頬の傷は名誉の勲章とするべきだな。
 だが西園寺は間違っていた。



    1945年 2月24日 硫黄島

 ラドフォード少将はどうにか応急処置を終えたヨークタウンの艦橋から昨日まで乗り組んでいた戦艦の姿を苦々しい表情で見ていた。
 ヨークタウンを旗艦とする第58任務部隊第四戦隊は被害の大きい艦を一時的に編入してとりあえずハワイまで後退することになっていた。被害を受けた部隊の中でも第四戦隊が一番損害が大きかったからだ。少数の護衛艦を除くと第四戦隊の中でも被害の少なかった艦は他の部隊に編入させられていた。だがそこまで再編成をおこなっても硫黄島を攻略するのは難しかった。
 硫黄島に上陸した海兵隊の損害は海上艦艇の比ではなかった。ほぼ二個師団分の装備と人員が失われていた。弾薬や食料も十分とは言えなかった。皮肉なことに人員が少なくなったことにより後の補給は容易だった。だがそれだけの兵力では十分に要塞化された硫黄島を攻略するのは不可能だった。そしてそれを支援しようにも第五艦隊からは火力が失われていた。
 本来火力支援部隊として指定されていた第54任務部隊は殆どの戦艦が指揮官ごと失われていた。第58任務部隊所属の戦艦も大半が失われていた。
 当時硫黄島にいた戦艦のうち無傷で生き延びたのはマサチューセッツだけだった。それどころか生き残った戦艦は他にミズーリしかいなかった。
 ウィスコンシンは勿論、サウスダコタも結局は失われた。砲撃戦と魚雷による被害だけならばサウスダコタは何とか生き延びることが出来たかもしれない。
 だがサウスダコタを沈めたのはあまりにも意外なものだった。どこから迷い込んだのか日本海軍の軽巡洋艦が突進してきたのである。戦闘後のごたごたで混乱した状況下で起こった突撃は故意だったのか事故だったのかも分からなかった。偶然とは考えづらいから故意に突撃したのだろうとは思うのだが確信は抱けなかった。衝突の衝撃で浸水が増大したサウスダコタと軽巡洋艦は折り重なるようにして沈んでいったからだ。
 そういった理由で損害を増大させていた戦艦部隊と比べるならば艦載機部隊の損害はごくわずかなものだった。しかし日本海軍に対する場当たり的な波状攻撃はあまり損害を与えていないにもかかわらず貴重な大型爆弾を消費しただけに終わった。上級司令部による統一指揮さえ出来たならば集中した攻撃で日本海軍の戦艦を沈めることも出来たはずだ。
 視界に入った重巡洋艦にラドフォード少将はふと眉をしかめた。その巡洋艦、インディアナポリスには第5艦隊司令部が入っていた。いったいその司令部はこの海戦の間何をしていたのだろう。少将は不機嫌になって艦橋の中に入ってしまった。

 ラドフォード少将どころか殆どの将兵は知らなかった。
 第5艦隊司令長官のスプルーアンス大将は戦闘の半ばですでに自殺していた。遺書は見つかっていたが、司令部人員によって自殺は隠されていた。



    1945年 3月2日 硫黄島

 暗闇のなか伊原大尉は足音を立てないように苦労しながら元山飛行場を歩いていった。周囲は米軍が持ち込んだ電灯がまぶしく闇を照らし出していたが、物資不足なのか照らし出される場所は歪だった。伊原大尉が率いる特別攻撃部隊はその歪に広がる闇をぬうようにして飛行場の中枢部へと侵入していった。
 特別攻撃部隊は海軍と陸軍の共同部隊だった。伊原大尉が率いるこの部隊は大尉と水兵二人のほかは陸軍の下士官兵で編成されていた。同じような臨時編成の部隊がいくつか飛行場に侵入しているはずだった。飛行場奪還部隊は他に第26戦車連隊が指定されていた。
 奪還とはいっても今の日本軍に朝があけてからも飛行場を制圧しておくだけの兵力は残っていない。この作戦も夜襲によって出来るだけ米軍の戦力を削いだあとは持ち帰れるだけの物資を頂戴して後退するだけだ。
 伊原大尉たちはもう何日も同じような作戦をおこなってきた。鹵獲した物資の量を考えればあと一ヶ月くらいはどうにか戦闘を続けることが出来るだろう。それにここ数日の間は米軍の抵抗がやけに少なくなっていた。米軍の兵力が減ったわけではない。むしろ兵員の士気が低下しているのが手に取るように分かるのだ。
 ついさっきも伊原大尉たちが隠れるすぐ脇を見回りの米兵たちは素通りして行った。米兵たちが伊原大尉たちのように周囲を良く警戒していれば大尉たちは発見されたかもしれなかった。だがその米兵たちはおっかなびっくり歩いていただけだった。
 思わずその様子を思い出して伊原大尉はほくそえんだ。この調子ならば今日の襲撃も成功するだろう。大尉はすぐ後ろを歩いていた水野軍曹に合図した。すでに襲撃予定時間になっていた。いつの間にか伊原大尉たちは飛行場の司令部にたどり着いていた。
 すぐに夜空に一発の信号弾があがった。ほぼ同時にかく乱の為に戦線後方に向けて噴進弾が発射された。
 それを合図にして井原大尉たちは喚声を上げながら攻撃を開始した。大尉自身も鹵獲した機関短銃を構えながら司令部の天幕に向かって射撃した。大尉の耳には飛行場に進行する三式戦車の音も聞こえていた。



 硫黄島の戦闘が後の日本に及ぼした影響について当事者たちの殆どが気がついてはいなかった。
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